大学を卒業しました

大学を卒業しました。

 


何を勉強していたかという話ではなく、どんな大学生活だったかという大学愛をひたすら語ります。 

写真もなくただ、ぐだぐだと喋ります。

 


1年間休学していたので、5年間大学にいました。といっても、10ヶ月はイギリスにいたし、休学中はほぼ大学にはいなかったので、実質キャンパスで過ごしたのは3年と少しくらいなのですが、信じられないくらい濃い日々でした。

毎日が刺激的でキラキラしていたと、「振り返って思う」のではなく、その瞬間その瞬間リアルタイムで感じていたほどでした。

毎日こんなにも楽しくて幸せでいいのかと感激してしまうような日々でした。

 


中高で自分のことが好きになれず、本当にどうしようもなく捻くれていた私ですが、この5年間で少し素直になったと思う。

大人になると人間どんどん捻くれてつまらなくなるという人もいるけれど、そんなことないと思う。

私は絶対に5年前の自分より素直で肯定的な人間になったと思う。

中高一貫に通っていたんだけど、その中で親友にも出会えたし、先生のことは好きだったことにはとても感謝している。理系科目は苦手だったけど、成績もそこまで悪くなかったし、一生懸命勉強もしたと思う。でも思春期で周りの目を気にしすぎてもいて、ありきたりっちゃあありきたりな少し嫌な経験もあって、斜に構えた自己肯定感の低い人間になってしまっていたと思う。

 


私は自分の容姿が本当に嫌いで、おそらく容姿が原因で嫌がらせのようなものを受けたこともあったし、それがすっかりトラウマやらコンプレックスとして定着し、自分の視野を狭くしていました。

自分の好きなことをするにも「可愛くない私が周りと同じじゃないことをするなんて生意気じゃないか」と本気で思っていました。

世の中のあらゆることは、容姿が優れている人だけに許されていると思っていた。

 


まあそんな感じで捻くれていた私ですが、中高の同級生が1人しかいない小さな、そして少し変わった大学に進学したことは、人生の転機で、そして人生最良の選択でした。

 


お互いがお互いを否定しない、尊重する空間は、こんなに楽なのかと感動しました。

「女扱い」(まあ今は「女扱い」自体をお断りしているんですけど)どころか何者としても扱われた感覚をいまいち掴めなかった高校までの学生生活を経てきた私は、男女を問わずみんなが当たり前に私を1人の人間として対等に見なしてくれて、当たり前に耳を傾けてくれて、尊重してくれるのは、信じられないことでした。

そして何が素晴らしいって、その後も一度も、その感覚が崩されたことはなかったこと。

この5年間、小さなイラつきなどはあっても、記憶に残るほどの「嫌なこと」なんて1つもなかったな。まあ勉強は死ぬほど大変だったんですけど…

 


たとえランダムな出会いでも大学の人々とは基本的にいつでもとても建設的で中身の濃い、興味深い話ができた。もちろん馬鹿な話もできた。

お互いの出自やらバックグラウンドに図々しく踏み入らず、でも相手に配慮しつつ、正直な意見を交換し合える場がいつでも大学に行けばありました。

 


誰かを故意に傷付けようとする人がいなかったし、いつでも他者を認めてくれる環境でものすごく自分の精神面が安定していくのを感じました。

「あなたはあなた、私は私」の距離感と、お互いに素晴らしいよね、よくやっているよね、という肯定感はものすごく心強かった。

 


どの大学やどの環境にいても、変わった人、ものすごく優秀な人というのは必ずいるけれど、母数が少ない割にはその比率が相当に高かったように感じる環境で、高校生までの私なら、どこまでも平凡な自分に劣等感を拗らせに拗らせ、多分どうにかなってたでしょう。笑

でも大学の友人はみんな、人の魅力的な部分を見つけるのが上手な人たちで、私のことも、「こんなところが素敵だ」と何かにつけて、というか何もなくても褒めてくれるから、自分で長所だと思ったこともなかったところを魅力だと褒めてくれて、そうすると、なんだか私にも何かができるんじゃないかと思えてくるものなんですよ。 

友人たちのように、例えばメディアに取り上げてもらえちゃうような大きなことや、社会をより良くするような活動とか、そういうことは成し遂げられないかもしれないけど、ただ自分の好きなことに夢中になってみようと思えたわけです。もっと生意気になって目立ってもいいかもと思える。

 


韓国語にしてもそうなんですよね。高校生の私が、大学入学当初の私が、卒業までにTOPIKの6級をとるまで韓国語にハマるなんて思ってもみなかった。もちろんまだまだの語力だけど、ある一定の水準をクリアできるようになるほど大好きだと思えるものに出会えるとは。

 


私は今まで、趣味は自分の中だけに閉じ込めておくもので、外に向かって何かを発信したりするものではないと思ってたんだけど、私がKpopが好きだったり、韓国語を勉強したり、留学に行ったり、旅行が好きだったり、そういうことを「ブログとか書いて発信してみる」という発想に至ったのも、友人や家族のおかげなんですね。

これまで自分が「何かを発信する」なんて生意気すぎて、調子に乗りすぎて、「こんな自分」のような人間に許された行為ではないと思ってたんですよ。本当に。物事を全てを知っているわけでもないのに何をわかったような口で語れるんだと思っていたというのもあるし。

でも発信することは多分元々とても好きだったんですよね。1日にあったことをその日の終わりに親に話して聞いてもらう、みたいな感覚で。おしゃべりをしてそれを誰かに聞いてもらうことが好きな私にとってはブログなどで色んなことを書いて載せることは、そういうものの延長なんだろうな、と。

 


化粧を覚えたことや、ジェンダースタディーズに興味が強かったこととかもあって、自分の容姿に関するコンプレックスや、自己肯定感のなさとか、そういうものの根っこの構造について色々少しずつわかるようになってきたこともあるけれど、やっぱりとにかく周りの人々のプラスエネルギーのおかげでこんなに肯定的になれたんだと思います。

 


そして色んなことを良い意味で割り切れるようになりました。「こんなこともあるよね」だったり、「あなたはあなた、私は私」だったり「理解できないものを理解しようとしなくていい(これは時と場合による)」だったり。

 


事あるごとに両親が「大学に入って表情が明るくなって、毎日が楽しそうで、心底充実していそうな様子を見て本当に嬉しい。こちらまで楽しくなる。本当に今の大学に行ってくれてよかった」と話してくれるたびにありがたさで泣きそうになります。こちらこそこんな素敵なところに行かせてくれてありがとう。このやり取り5年間の間に死ぬほどしたな…。この後も死ぬほどしよう。

 


元が多少ネガティブではあるし、人の性格はなかなか根っこから変わるものでもないと思っているけど、今の私はある程度自分でちゃんとコントロールできるネガティブになったと思っているし、ネガティブのサイクルにハマっても昔みたいにどうしようもなくなって潰れることは滅多にないと思う。

仕方ないことは仕方ないと思えるようになったし、自分に何ができるのかもわかってきたので。

上を見ても下を見てもキリがない世界なので、「私はこんな感じなんだな」と淡々と受け止めて、必要以上に自分を卑下しなくなったことは、昔の自分には考えられないことです。

 


自分が完璧だとはこれっぽっちも思わないどころか、どうしようもなく未熟だと思うし、改善すべきなところだらけだと思うけれど、それで自分が価値のない人間だとは思わない。私は私でそれなりになかなか悪くないところがあるなと思えるし、それを変に遠慮せずアピールすることもできる。

この5年間は私が私でいいと認めてあげて、自分を好きになってあげるための5年間だったな。

 


家族、友人、先生、とにかくみんな、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

より良い人間になって、恩返しをするからね!